お手玉と私 | 東京おてだま

お手玉と私

私とお手玉の付き合いは幼少の頃に遡ります。

山形の冬は雪深く、外で遊ぶ事ができない為、近所の女の子たちが誰かの家にみんなで集まり、幼い子からお姉さんまで一緒になって遊びました。

今思えばそこで人との付き合いや人間関係、社会性というものを学んだような気もします。

 

「ひとふでみやからなつぁいか。いとしによくもうし、かまずひいふ かまずひいふ くじゅうやつかのおまけに○○さんにやっと一丁かしもうした」

子供の頃、二つのお手玉をつきながら歌った唄です。今でも意味は殆どわかりませんが、それをちっとも不思議とも思わず六十年も過ぎてしまいました。これが親から子へ、子から孫へと信じて伝わる伝承のすごさではないでしょうか。

私は山形県の南、米沢市からローカル線で三十分、そこからまた山奥へ数キロ入った日本でも指折りの豪雪地帯に生まれ育ちました。小、中学校が一つの建物で、各クラスを除いた職員室、音楽室、保健室、図書館、体操場は全部共同でした。住み込みの用務員のおじさんの鳴らす鐘の音が、カランカランと小さい学校に響くと、小学一年生から中学三年生までの生徒が一斉に体操場に集まっては、何やかやと遊んだものです。あんなに短い十分間の休み時間でも結構遊べて楽しみの時間でもありました。

冬の代表的な遊びは野外ではスキーやそり遊び、屋内ではお手玉、まりつき、卓球や縄跳び等でした。中でも小さい子から大きい人までみんなで遊んだ大廻しの縄跳びは、スリルもあってそれは楽しいものでした。

 

さて、お手玉です。お手玉は、秋から春までずーっと続く遊びでした。見よう見まねで毎日毎日練習しては腕を上げて、上級生のお姉さんたちに遊んでもらったり褒めてもらうのが楽しみでした。高く上げては体をくるくると廻してまたついたり、手の甲でひっくり返したり、今から思えばあの小さな山間の学校は、お手玉サーカス学校のようでした。

春の陽ざしを受けて雪が溶け出し、ちょろちょろと水が流れふきのとうが顔を出してもまだ外遊びはできません。桜の咲くのがやっと五月上旬、という春の遠い雪国です。半年近くもお手玉と遊んでいたのですから上手になるのも無理はありません。

おかげ様で第一回全国お手玉大会両手三コつきの部のチャンピオンの栄光に輝きました。

「私の名前はこいずみたまこ。芸名は おて たまこ」です。まさに芸は身を助ける。私の場合は、芸も名も身を助けてくれました。私にとってのお手玉は、母のぬくもりであり、思い出であり、出会いでもあります。

お手玉はわが人生のパラダイス。私の名前、「おて たまこ」をどうぞよろしく。

 

私は東京お手玉の会に所属しています。そこで、大好きなお手玉を小学校や老人保健施設、デイケアセンターなどにボランティアで教えに行っています。教えに行くといっても皆で一緒に楽しく遊ぶのです。

日本に昔からある素朴な「お手玉」を、今の子どもたちに「こんな素晴らしい遊びがあるんだよ」と伝えたい。お年寄りには、昔をなつかしんで、童心に戻ってイキイキと遊んで欲しい。そんな思いをこめて、できる限りまわりたいと思っています。

う〜ん、お手玉って素晴らしい!

会員:小泉珠子

2017年8月5日 7:19 PM  カテゴリー: お手玉ちょっといい話, 会員コラム